第1章 殺人と人間の本性
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「淘汰思考の」の手短な入門
生物の複雑な適応システムを説明する首尾一貫した理論はこれまで二つしかでていない
変異が常にランダムに生み出され、それぞれの生存と繁殖が、ランダムでない要素によって異なるとするならば、より適応的な形質が残され、他のものは消えることになる 生物は複雑な適応システムであるというとき、それは、生物の持っている性質が、目的によくかなっているように見えることを意味している
もし化石の顎に臼歯が生えていれば、臼歯はすりつぶす働きをする歯なのだから、すりつぶさねばならない食物を食べていたのだろうと推論できる
優れた科学者であれば、そのような推論から仮説を導き、さらに、それらの仮説が間違いであるかどうかを示す、どんな事柄が導かれるかを考えてみる
すりつぶす歯があるならば、それは何らかの形で、もう一本の歯と嚙み合っているはずだ
それなら、すりつぶし運動に都合のよいような筋肉がついているはずだし、すりつぶしを示す摩耗のあとがあるはずだ
そして、これ以外の仮説のもとでは起こりそうもないような、こういった細かい事柄がいちいち確認されるにしたがって、この歯には私たちが考えた通りの適応的機能があったのだと、自信を持って結論するに至る
このようにして機能を明らかにしようとする試みは、近年、「適応万能論」というよくない呼び名で知られるようになった 機能を正しく同定できる証拠は色々と挙げられるが、もっとも重要な点は、問題としている機能に対して明白なデザインがあるということだ(Williams, 1966) デザインが適応的でないように見える場合には、それ自体を適応論的アプローチから説明せねばならないと考える
科学者たちが、いま問題にしている構造は持ち主にとってなんらかの役に立っているに違いないと仮定し、それが何なのかを明らかにしようとした結果、理解は進んできた
これは重要な点
適応論的アプローチは、進化生物学の枠内でも最近批判されており、それに一理はあるものの、批判が強調されすぎてきたから
グールドとルウォンティン(1979)は、おとがいそれ自体に機能は何もなく、その他の点における構造、発達上に生じた自然淘汰の副産物に過ぎないと主張している
警告は心にとどめておくべきだが、それは、一般的に適応論を無用にするものでは決してない
グールドとルウォンティンに対してエルンスト・マイヤー(1983)は、生物学の研究におけるほとんどすべての重要な進歩は、なんらかの適応的機能を仮定した議論にもとづいてなされてきたと反論している 行動の研究においても、形態学や生理学におけるのと同様、生物の示す特徴は、淘汰の結果として適応的にできていると仮定し、行動がその行為者に対してどのような利益をもたらすのかを追求する
例えば、捕食者は、獲物の分布に沿って適応的な探索戦略をとり、獲物が集団性ならば、このまえ獲物を捕まえた場所と同じ場所へ行くだろうが、獲物が単独制ならば、どこか別のところを探す(例えば、Smith, 1974) ウォレスとダーウィンはこの言い方が適切であると思ったが(Dawkins, 1982, pp. 179-180)、実際は、非常に多くの誤解を生むもととなった 適応的な形質の「生存価」について語るとき、われわれは、当然、個体が食物を見つけたり、エネルギーを蓄えたり、捕食者から逃れたり、病気から身を守ったりするのに役立つ性質のことを考える しかし、自然淘汰の帳簿の上では、個体の生存はもっとも重要ではなく、重要なのは繁殖
もしも、生物の行動傾向が自然淘汰で形作られているのであれば、ほとんどつねに死よりも生が好まれているはずだ
生に価値があるのは、それが適応度に対して寄与しているからであり、それ自体が目的ではない
卵をがたくさん産み込まれている巣を守っているトゲウオは、巣の中の卵の数が多いほど、接近してくる捕食者に対してより長く踏みとどまり、より頻繁に捕食者を攻撃しようとする(Pressley, 1981) 事実、卵数が多いほど適応度が高いので、この小さな魚が死を賭ける確率は上がっていく
進化心理学
生命に関する進化的視点によれば、適応への究極的通貨は適応度の期待値
しかし、適応度は最終目的であり、もっと至近的な目標の点から、行動を制御しているメカニズムを十分に適応論的に分析することができる
効率的な採食は生存、繁殖に明らかに有効なので、適応度はひとまず置いて、一時間あたりに摂取されるタンパク質が最大化されているかどうか、単位あたりの捕食圧に対して摂取されるカロリーが最大化されているかどうか、といったことだけを検証することができる
例えば、画像処理器官の有効なデザインというものは、生物の究極的目的が適応的であろうが、生存であろうが同じだろう
しかし、生物は「生存機械」であるという考えで、つねにうまくいくとは限らない 動物の持つ形質を理解するには、それが、遺伝子の継続性のための手段である可能性を考えねばならない 例えば、父親が独身者とは異なるやり方で危険を評価したり、母親がミルクの質を維持するために自分自身の骨中カルシウムを減らしたり、人々が赤の他人と近縁者とを区別して扱ったり、年長者と同年齢者とには異なる態度をとったりすることを見るときには、行為者の動機に意味を見出すには、淘汰的思考が決定的に必要となる
本書における私たちの理論的アプローチは、ホモ・サピエンスという動物がどのような心理的メカニズムを進化させていると考えられるかの発見的仮説、またはモデルを構築するために、生物の持つ形質は淘汰の歴史によって作り上げられているというダーウィンの発見を用いるというもの 私たちの探求のパラダイムをなんと呼ぶかについては、若干の問題がある
心理の系統発生的再構築であるという誤解を招くかもしれないが、私たちもこの言葉を使おうと思う ちょっとぎこちないかもしれないが、いらぬ方向に目をそらせる意味合いをまったく欠いていて気持ちがいいということで、やはり使おうと思う
誰も遺伝子の継続性(適応度)が、直接的な意味で何にもまさる「目的」であると考える人はいないだろう
進化理論において適応度が果たしている役割は、心理学の理論において、自尊心や血中グルコースの適正レベルなどが果たしている役割とは非常に異なる 適応度に関わる結果は、それ自体が目標なのではなく、そもそもなぜ、ある特定の目標が行動を制御するようになったのか、なぜそれがそのように作られていて、そうでないようには作られていないのかを説明するために用いられる
適応度の関わる結果と至近的な目標との区別の混同は常に起こっている
社会科学者たちは、精管結紮手術や養子を例に出しては、それを淘汰モデルを反証するものだと論じてきた
適応は将来を予見してなされるものではない
生物のデザインに見られる明らかな目的は、歴史的な環境の中で特別の要素がずっと続いて存在したことによっている
自然淘汰の概念が行動を説明するのは、ある特定のレベルにおいて
二人の男が喧嘩しているという行動の説明
心理学者は、自尊心、社会的地位、「顔」などといった概念で説明して満足するかもしれない
進化心理学者は、なぜヒトの心理は、そのような実体のない社会的資源に対して死の危険をも冒すようにできているのかまで知りたいと考える
心理学が、進化理論の提供するものとは非常に異なるレベルの説明に焦点をあててきたのは事実だが、だからといって、動機づけの理論は進化生物学を無視してかまわないということにはならない この他にも、社会科学者たちが論じている理論の多くは、暗黙のうちに自然淘汰の働きを否定しているので、必然的に誤りであると言える
サイモンズ(1987)が言うところの「ダーウィン理論によって裏打ちされた想像力」があれば、実りの多い動機付けの理論が生み出されるだろう 例えば、淘汰思考は、母親の愛情の強さの変異が、母親の年齢や子供の年齢その他の変数の関数であるとし、それらについて詳細な予測を生み出すが、第3章 嬰児殺し、第4章 親による現代の子殺しで見るように、進化理論から導かれた母親の動機づけの理論が正しいことを示す、めざましい証拠がいくつもある 社会生物学を批判する人々は、淘汰思考による行動の説明は、不適切な「決定論」であると論じてきた このような批判は哲学的にナイーブである
決定論的であることを本当に非難するのならば、その攻撃は、行動に関するすべての科学的探求に向けられねばならない
生物学者も社会学者も、研究対象としている現象には原因があり、その原因を知ることができると確信している
われわれは、様々なパラダイムの範囲内で、「説明のつかない変異」というものを取り出しては、研究対象の動物がなぜそのように行動するのかを、よりよく理解しようとしている
この探求の全ては決定論と呼べるだろう
われわれの科学が進むにつれて、それの持つ深い意味合いが気になってくる
自由意志や個人の責任というものを信じ続けられるだろうか 学習こそが何よりも重要であると主張したことは、「生物学的決定論」の正反対の極であると一般には受け取られている しかし、スキナー(1971)は、罰と報酬の力があまりにも絶大であると思っていたので、「自由と尊厳」などというものは幻想だと片付けた 進化生物学者を決定論者だと非難する人々は、普通、行動の原因を社会的、経済的要因に帰する
皮肉なことに、これらの要因は、まさに進化生物学者が至近要因としてもっともよく取り上げるものだ
残念なことに、批判者たちは、彼ら自身が好む理論が、因果関係を説明しながらなぜ決定論を免れることができるのかについて、何も説明していない
正真正銘の意見の違いは「人間の本性」という概念にある 人間に本性などないと主張する者でも、彼らの「社会的比較の過程」または「自己実現」その他の理論が、アメリカ人には当てはまるがパプア人には当てはまらないと知れば、おおいにがっかりするに違いない
もっとも強力な反生得論者も含め、すべての社会理論家は、なんらかの抽象的なレベルで通文化的な人間の本性を描き出そうとしている
意見の違いの最も重要なものは、発達における「氏か育ちか」の相対的な重要性にあるのではない これは、学問の進歩をとてつもなく妨げた、無意味な問題設定である
淘汰思考をもとに精密な予測を引き出す研究者は、進化によって作り上げられたヒトの心理特性は、種類がたくさんあって、それぞれ特殊化したメカニズムから成り立っていると考えているが、ほとんどの心理学者や社会学者は、ヒトの心理は、少ない数の何にでも対応できるメカニズムによって働いていると考えている
進化学者は、生物が直面している適応的問題の幅の広さに注意を向け、それらに対応するために進化するはずの複雑な戦略について考察する
心理学者は、本能論と聞こえる議論には懐疑的で、節約の原理を持ってすれば、心理は特別に構造化されていない単純なものだと考える方が正しいと主張する 幸いなことに、この区別には、本質にかかわるものはない
他方、心理学では、1957年のスキナーの言語獲得に関する過激な学習説をもって、行動主義理論の厳格さは盛りを過ぎた 彼は、言語獲得のような複雑な過程ですら、ネズミの学習を理解するのに必要な程度の少ない数の概念で分析できるとし、また、そうするべきと主張したので、感覚、認知、言語を研究していた心理学者たちはとうとう立ち止まったのである(例えば、Chomsky, 1980; Fodor, 1984) 進化理論というよりは、彼ら自身のデータに導かれて、心理学者たちは、人間には、私たちをとりまく自然界に関する漠然とした情報をしっかりと受け止めるための、複雑で特殊化したプロセスがあるのだと考えるようになった
社会科学の営みのすべては、人間の本性を知ろうとする試みである
生物的自然をより広く包含するダーウィンの理論、生命科学のあらゆる分野で発見的働きをなし、基本的な正しさは疑いようもない理論が、この試みとは関係がないなどということがあるだろうか?
進化心理学は、淘汰思考を使って、動機づけ、感情、認知、子どもの発達に関する、一般的で検証可能な仮説を生み出すだろう それは、心理的なプロセスを、結果として表れる行動にも、それを形成してきた淘汰圧にも、両方に結びつけるだろう
自己の利益と葛藤
われわれが食欲や野心や知能や嫌悪感を持っているのは、それらが歴史的に適応度に貢献してきたから
われわれが自己の利益を認識するのは、適応度の増減の期待値のおおまかな指標としてである
期待値と呼んでいるのは統計的な意味であり、過去に蓄積された証拠から平均的に期待されるものを指す 自己利益の認識の起源をこのようにとらえる理論からは、すぐにも、利益の一致と葛藤の本質に関する理論が導かれる
緊急事態が適応度の期待値に同じような影響を持っているときには、互いの利益は一致していると感じるだろうが、片方が下がりた他方があがるときには、利益は対立すると感じるだろう
もしもこの理論が正しくて、つまらないものではないならば、利益の対立の解決としてもっとも劇的な方法である殺人について、何らかの光を投げかけてくれるはずだ
淘汰思考によれば、個人間の社会的な親密さと葛藤には、遺伝的な関係が非常に重要
個人にとっての近縁者の適応度はそれぞれ異なり、近縁関係が近くなるほど高くなるから
例えば、兄弟姉妹どうしは、互いの生存と繁殖に利害関係を持っている
甥や姪は、自分の適応度の要素の一部であるが、自分自身の子どもよりは価値が低い
直系子孫だけでなく、傍系の近縁者も適応度の要素であることは1964年にW・D・ハミルトンが「包括適応度」を提出するまでよく認識されていなかった そこで、資源をめぐって競争している動物どうしは、自分徒競走者との血縁に対して敏感であるに違いない
例えば、近縁関係にある競争者に対しては、近縁関係にない競争者に対してよりも、危害を加えないようにするはずだし、競争者が近縁者であれば、自分が資源を取ることと、相手にそれを譲ることとの間に、それほど大きな差異を感じないはず
他の条件が同じであれば、近縁関係は対立を緩和するように働き、血縁度に比例してそうなるはずだ
最近の動物の行動研究には、この理論が正しいことを示す証拠がふんだんにある
特に興味深い例は、雌のジリスが、たとえ一緒に育った姉妹どうしであっても、自分と両親を同じくする姉妹と、母親が発情期に二匹以上の雄と交尾したために生じる、父親が違って母親のみを同じくする姉妹とを、区別して扱うこと(Holmes & Sherman, 1982) おとなになって、姉妹同士がなわばりを隣接して持つと、片親しか同じくしない姉妹同士は、両親を同じくする姉妹同士よりも、なばわりをめぐって強く争う
よそから、近縁関係にない雄や雌が巣穴に侵入して子供を殺そうとすることがあるが、雌は、片親鹿同じくしていない姉妹に対しては、両親を同じくする姉妹に対してよりも、少ししか助けを与えようとしない
おそらくジリスたちは、姉妹の表現型(したがって遺伝子型)が自分とどれほどにているかによって、この区別をつけているものと思われる 一緒に育った姉妹同士の間で、この区別を可能にするような環境的手がかりがない
このような現象から、特にどのような心理が進化的に生じるかについて、興味深い予測を引き出すことができる
一卵性双生児の適応度上の利益は、まったく一致するだろうが、二卵性双生児では、普通の兄弟姉妹と変わりがないと予測できるが、これは正しいだろう 一卵性双生児同士は完璧な調和を持って行動し、ペアの全体的利益が上昇するのであれば、片方は死をも辞さないだろうと演繹推論できるかもしれない
しかし、われわれの進化的歴史において、一卵性双生児の間にそのような特別の心理が進化するほどに、一卵性双生児は頻繁に生まれ、しかもおとなになるまでよく生存したと仮定してもよいものだろうか
ジリスの場合には、父親の違う子どもたちが一緒に育ち、そのような姉妹同士が隣接してなわばりを持つことは普通である
そのような条件下では、姉妹同士を区別することは常に求められたであろうし、重要な淘汰上の利益があった
それと同じように、一卵性双生児と二卵性双生児を区別するのが重要であるような自然淘汰的シナリオは、ヒトではほとんど存在しなかっただろう
しかし、これと似た状況で、年の違う兄弟姉妹の間で父親が異なることは頻繁にあっただろうから、父親が違うかあどうかを査定し、それにしたがって兄弟姉妹間の競争の強さを調節するような特別の心理的メカニズムが進化しただろうと言う説は、もっとずっとありそうな仮説である
なぜ殺人なのか?
人間同士の葛藤について引き出される理論を検証しようとする科学者にとって、殺人は、特別に変化に富んだデータを提供してくれる 自己報告に基づく方法は簡便なのでよく使われているが、最善の場合でも信憑性に問題があり、とくに葛藤の研究においてはそうだろう
対照的に殺人は劇的な行為であり、起こったこととして、自己報告には欠けている信憑性がある
殺人などあまりにもまれにしか起こらないので、葛藤一般に光をあてるには極端すぎると反論する人もあるだろう
これほど切羽詰まった行動には、焦点を当てるだけの価値がある
抑制と罰則があるにもかかわらず殺人を犯す人間は、非常に強力な感情に動かされた人々である
他人を殺そうとまで思うような事柄は、まさに、人々が最も深く気にしている事柄に違いない
さらに、殺人は非常に深刻な事態だと受け取られているので、軽微な葛藤に関するものよりも、警察の報告や政府の統計にバイアスがかかっていない
殺人といっても、様々な分類の行動の集まり
互いに知る者同士が、長い葛藤の果てに殺人に至ったケースは、例えば、強盗のさなかに見知らぬ者同士の間で行われた殺人とは種類が違う
この二つの分類の間には、興味深い類似点もあれば相違点もある
殺人の中には、あらかじめ準備をして巧妙に行ったものもあれば、衝動的に見境なく行ったものもあるが、双方ともに、人間の自己利益の認知をよく表しているので、私達の探求には両方とも価値がある
進化心理学的アプローチは、殺人ということ自体が「適応」であると述べているわけではない
これから論じようとするヒトの感情が形成された淘汰上の状況において、実際に殺すことが頻繁に行われていたかどうかはわからない
そうであったとしても、そうでなかったとしても、真の適応は、もっと心理的なレベルにあるに違いない
例えば、男性は、自分の妻をいじめ、うまく他のライバルの男性を遠ざけておくことができるように性的に嫉妬深い方が、自分の子供と言われている子が本当に自分の子である確率を高くできたとしよう
そうだとしたら、殺人も含めて、個体間の暴力には、男性の性的嫉妬が重要な動機の一つであるだろうと予測できる
さらに、嫉妬の強度にも、環境条件、社会的要因、人口構造などによって特定の変異があり、それに関連した殺人の頻度にも変異があるだろうと予測できる
そのように考えることは、性的嫉妬による「殺人」が、行為者の適応度を上げるものでなければならないという仮定を置いているわけではないし、実際に過去にそうであったかどうかも関係がない
ここで仮定しているのは、進化的過去において、性的嫉妬――それに伴う暴力の脅し――が、その保持者の適応度を高めただろうということ
殺人について心理学的な仮説や予測を生み出すために淘汰思考を用いるといっても、私たちは、ダーウィン理論を検証しようというのではない
進化理論を知っていると、心理や行動がどのように淘汰によって形成されたかについて、代替仮説を生み出すことができる
妻はどのような年齢のときに、夫によって殺される確率が最も高くなると予測されるだろうか
淘汰思考によれば、閉経後の女性は、男性から見て最も価値が低いだろうから、もっとも殺される確率が高いとも考えられるが、妻殺しは、もっとも繁殖価の高い女性を男性がコントロールしようとして使う暴力の、氷山の一角に過ぎないと考えることもできる 進化理論によって裏打ちされた想像力が、代替的なシナリオを生み出すことに、ばつの悪いことも「非科学的」なこともなにもない
淘汰思考は単なる理論にとどまらずパラダイムであり、それは、多くの探求に値する道を開いてくれる 私たちの知る限り、これまでの殺人の研究者の中で、配偶者殺しの発生率が、両者の年齢と関連しているかもしれないと考えた人は誰もいなかった
なにが殺人か?
最近のオーストラリア政府の統計によると、年間10万人あたり2件から4件の「殺人」が生じている(Biles, 1982) この数字の中には殺人も殺人未遂も故殺(訳注: 一時の激情による殺人。謀殺と区別される)もすべてが含まれている
なぜ「殺人未遂」がこんなところに含まれているのだろうか
オーストラリア政府の定義が他と変わっているわけではなく、いくつかの国の政府の統計は、既遂殺人と未遂殺人とを同一のカテゴリーの中に含めており、そういう記録法をとるにはそれなりの論理があるに違いない
ある特定の暴力行為が、統計の中に含まれるか含まれないかが、一番近い病院までの距離がいくらかなどという偶然の出来事によって決められるというのも、おかしな話ではある
もしも動機に注目するならば、殺そうという「意図」をもって行われた暴力は全部含められるべきだろう
ところが、すぐに問題が生じる
「殺人」と「故殺」の区別は原理的には殺す意図があったかどうかで定義されているが、実際には、あからさまな有罪答弁取引などのさまざまな基準に基づいている
オーストラリアのように、結果がどうであれ殺す意志のあった例と、意志がどうであれ人が死んだ例とを、すべて殺人の定義に含めると、「意図」という概念の統一性が崩れてしまう
さらに、意図というのは鼻持ちならない推察であるので、実際の死体がある例よりも「殺人未遂」の例の方に、より偏った記録のバイアスが掛かっているに違いない
自殺未遂が本当の自殺と異なるように、「殺人未遂」は実際に行われた殺人とはシステマティックに異なるかもしれない
私たちは実際に既遂のものだけを殺人とみなすことにする
本書では、「殺人」と言う言葉を「人が他人に向けて行った暴行およびその他の行為(例えば、毒を盛るなど)で、戦争以外の状況で起こり、その結果相手が死に至るもの」と定義することにする
私たちの分析では一件が一つの死体と対応している
「他人に向けて行った」というところと「暴行」を「事故」と区別しているところに意図がまた滑り込んでいるが、しかし、実用的であるようにする
この定義のよいところの一つは、ここで挙げたことのほとんどが、デトロイト警察の殺人課が捜査する事件、およびカナダ統計局が持っている包括的な殺人データと、ほぼ完璧に合致していること
この二つが、私たちのもともとの研究の文書データの主な源泉であり、ここからの分析結果の多くを本書に示す
新しい興味深い分析ができるものならば、どんな源泉のものであれ、上記以外のデータも用いたし、できるかぎり、様々な人間社会の例を取り入れた
私たちは北アメリカに固有の文化を人間の本性とするような、自文化中心的誤りは避けられたと信じている
誰を確定した殺人者とするべきかと言う問題
裁判で結審された殺人者は、また、どうしようもなくバイアスのあっかった基準
例えば、1972年でデトロイトで起こった殺人のサンプルは、20人の男性が妻を殺したことで結審され、9人の女性が夫を殺したことで結審された
もし、これだけを見るならば、実際の1972年のデトロイトでは、女性が夫を殺す方がその逆よりも多かったということには気づかないだろう
夫を殺した女性の75%が裁判に持ち込まれなかったのに、妻を殺した男性では、それはたった20%だった
「正当防衛」と判決された殺人にも興味があり、両者の違いがどこにあるのかについては、本書でたくさん述べるつもりである
正当防衛であると判決された殺人の頻度は普通に考えられているよりもずっと高いので、これを除くと、結論に大きな影響を及ぼすだろう
フロリダのマイアミだけで、1980年に起こった解決済み殺人事件のうち100件以上が「正当防衛」または「許される」殺人と判定されており、起訴されなかった(Wilbanks, 1984) これらのうちいくつかは自己防衛であるが、その他の多くでは、被害者は武器を持ってもいなければ、脅しをしていたわけでもない
何が殺人とされるかについて、書かれた法律と実際問題との間にはかなりの食い違いがみられる
後の章で詳しく述べる
私たちの目的が検事の行動ではなく殺人者の行動を理解することなのであれば、殺人者のデータには裁判で確定されたものだけでなく、起訴はされなかったが警察が検挙した者も含めねばならない
このような基準をとると、無実の罪に問われた者も含めねばならないだろうが、その数はそれほど多くないはずである
北アメリカにおける犯罪学上の殺人研究の多くは、私たちと同じ殺人の定義を使っており、同じような文書データに基づいた研究もいくつかある